レアルマドリードのある生活

レアルマドリードの応援日記。試合中心にお送りします。

ディ・ステファノ、死去

マドリーの歴史の中で最も重要な人物がこの世を去った。

アルフレッド・ディ・ステファノは、ペレス会長が言うように、マドリーそのものと言える人物だった。

プレーヤーとして獲得したタイトル(リーガ8回、チャンピオンズカップ5連覇、コパデルレイ1回、インターコンチネンタルカップ1回、ラテンカップ2回、スモールワールドカップ1回)はマドリーを現在の地位に押し上げる最も大きな要因の1つとなった。また、それだけではなく、2000年に名誉会長となって以降、マドリーを象徴する存在として多くの場に出席し、近年のマドリーの対外的な立場を示す上で欠かせない役割を担った。

彼の存在を知らないマドリディスタはいないだろうが、名誉会長としての彼の存在は常に意識されるようなものではなく、私も彼の存在を取り立てて記事に書いてことはなかったと思う。

しかしながら、新加入のプレーヤーに白いユニフォームを手渡す場面、新たなシーズンへ向かうチームの写真撮影をする場面で、これまでずっとそこにいて今後もいるかのようだった彼の姿がないことは、あまり想像できない。

普段は意識されなくても常にそこにいる存在があることの重要さを改めて認識する。

マドリディスタの喪失感は、今後様々なイベントがあるごとに深まっていくだろう。

いつも見守ってくれていた偉大な人物がもういないということは、本当に悲しいことだ。

最後に、アスのアルフレッド・レラーニョによる記事を。

アルフレッド・ディ・ステファノはスペインのフットボールの歴史において重要な人物であるとしばしば語られる。バルセロナにとっては悪い話として何度も語られる彼との契約が分水嶺となったのだ。彼がやってくるまで、マドリーは内戦前に僅か2回のリーガ制覇しかしておらず、共和化以降に1度の優勝があるのみだったが、彼が来て以降はその他の時期を全てあわせたのと同じだけ多くタイトルを獲得した。

しかし、彼の影響はそれに留まらない。ディ・ステファノはフィールド全体を動く最初のプレーヤーであった。彼の登場以前は、11人のプレーヤーがそれぞれ専門の役割を持って並んでいた。あるエリア、スタイル、特別な動きの専門家たちである。ディ・ステファノはそこから飛び出し、フィールドを動き回ることにした。彼は守り、攻撃し、フィニッシュした。

そのため、1957年に彼がゴールデンボールを受賞した際、レキップは彼を”L’Omnipresent”と評した(訳す必要はないだろう)。58年には同賞から外されたが、59年には彼を外しておくことは不可能だった。ずっと後に、”ゴールデンボール・オブ・ゴールデンボール”という形で穴埋めされた。

サッキはある時私に、それはサイレント映画からトーキー映画に変わったようなものだと言った。「いつでもフィールド上のどこにでもいる」初めてのプレーヤーだ。彼のマドリー加入とその後の爆発的活躍は、彼が5連覇を果たしたヨーロッパカップ(現在のCL)の立ち上げの時期と重なる。全ての決勝戦で彼は1ゴール以上を挙げたのだった。

マドリーでのプレーはもしかすると彼の人生の大きな冒険だったかもしれないが、唯一のものではない。リーベルでの活躍、ストライキによるミジョナリオスへの移籍、バルセロナとマドリーの獲得競争、マドリーでの栄光、カラカスでの誘拐という厳しいエピソード、サンチャゴ・ベルナベウとの衝突の末のエスパニョールへの最後の移籍という出来事があった。

負傷により62年のW杯では全くプレーしていないが、63年10月のイングランドとの試合では世界代表チームのカピタンを務め、フットボール誕生から100年を祝った。これは比類なき名誉だ。彼の半分は不機嫌だが、もう半分は人を惹きつける性格だ。感情を隠すことはできない。彼は人生をまっとうした。フットボールをより良いものにした。