「人種差別を受けるのは、差別される側の態度に問題があるからだ。」
現代の価値観とはおよそ相いれない主張であるが、フットボールの世界では声高にこうした主張をする人々がいることが可視化されてしまった。
他人種がスペインで生活すると、意識無意識を問わず差別的な言動に遭うことは日常的にあるらしい。
また、スタジアムでバカ騒ぎしたいだけのダメな人々がどの国にもいるのは明らかで、スペインも例外ではない。
これらが掛け合わせられて、スタジアムがヘイトクライムの狂奔に飲まれてしまった。
しかし、問題はスペインの一スタジアムに留まらなかった。
バレンシアでのビニシウスへの差別行為は、遠く離れた日本においても、「人種差別を受けるのには理由がある」、「理由があれば人種差別されるのもやむを得ない」と考える人々がいることを浮き彫りにしたのだった。
そうした人々は、嫌いなクラブのプレーヤーに対して「差別は許されない。だが・・・」という言い方で差別を肯定する。
こうした発言をする人は、「差別は許されないと言った。肯定していない!」と言うが、なぜこれが差別の肯定になるかというと、差別を受けないために満たすべき条件などないからである。
“だが”の後段に任意の条件を組み込み、それを満たさなければセーフ、満たすとアウトで差別してもされても仕方ないという考えは、差別を肯定するものに他ならない。
シャビが「どのユニフォームを着ているかの前に一人の人間である」という真理を述べていた。
スポーツ面においては相容れないライバルをどこまでも受け入れることのない、あの彼がである。
それなのに、ダイブ、ラフなタックル、プレースタイル、芝の長さ・・・スポーツのあれこれについて好き嫌いを述べることと、ライバルクラブのプレーヤーの肌の色を揶揄することは同じレベルにないということが分からない人々、それをあえて文字にして表明しようという人々がこの国にも多数いる。
まあいまさら驚くべきことではないかもしれないが、改めて暗澹たる気持ちになってしまう。
他国のフットボールクラブを応援すれば、その国の歴史や文化について多少なりとも知識は入ってくるものだ。
もちろん、それぞれの国やクラブの歴史背景を知り、尊重することは大事なことではある。
しかし、かの国の人々が経験してきたことによって生まれた感情や価値観を内面化しようとしなくとも、私たちは彼らのプレーを応援することだってできる。
スペインで差別的な言動が横行しているとしてもそれを肯定しなければならないわけではないのはもちろんだし、時の政権への支持や抵抗を示すためにとあるクラブを応援していた人々がいたとしても、そのクラブを応援するために彼らの主張に賛同しなければならないわけではない。
プレースタイルが好き、好きなプレーヤーがいた、たまたま見たら気に入った・・・などなど、差別的なものでない限り、誰かには誰かの理由があってよいし私たちにも私たちの理由があってよい。
そこに優劣はないし、どちらかに統一されていく必要もない。
これは、遠い地から応援する私たちの特権でもあり、憎しみを再生産する場とすることなく、純粋なスポーツとしての価値を高めていく一端を担う義務でもある。
そのことを喜び、役割を担う姿勢を示すときではないだろうか。