CLの直後にバルセロナ戦があったという日程のおかげもあって、普段はあまり見ない層もマドリーの試合を見てくれる機会となったようである。
せっかくの機会なので、しばしばある誤解を解いておきたいと思う。
その誤解とは「マドリーは何でもできるチームである」というものだ。
■最近の事例をもとに考える
マドリーにはポゼッションやカウンターなど、プレーの仕方に信条があるのではなく、勝つことそのものを目指す。よってどんなやり方もできる、という言い方をしばしばされる。
こちらのブログでも、そのような導入がなされていた。
しかし、マドリーの試合をそれなりに見続けてきた立場から言うと、それは不正確な紹介だ。
確かに、守備について取り出して見ると、モウリーニョ期のリトリートを基盤としつつ、アンチェロッティの可変システム、今シーズンのプレスといったように変遷してきた。
これについては、その時のプレーヤーに合わせてやり方を調整してきた経過はある。
だが、攻撃について言うと、マドリーがポゼッションで継続的な結果を残したシーズンは、この10年に一度もないといっても言い過ぎではない。
逆に、ペジェグリーニの失敗や、第一次ジダン期のイスコシステムの頓挫、ロペテギ期の混乱といったように、うまくいかなかった経験が多いのだ。
最近のマドリーでも同じで、ボールを持つというより持たされることが多い。
それを、サイドからのクロス多用でロナウドが決める形を取るといったことで解決を図ってきたのだが、ポゼッションもできると胸を張って言えるようなものではなかったというのが率直な印象だ。
このように、「あまりボールを持たずに勝つ」というスタイルを得意とする潮流が、どんなに短く見積もってもモウリーニョ期以降ずっと続いているのだ。
これを「何でもできるチーム」とするのは、褒めすぎ、過大評価であろう。
■理由を推測
では、このような誤解はどこから生まれてきたのだろうか。
私は、マドリーが特定のやり方にこだわらないクラブである、という点から発生したものであるように思う。
マドリーの目的は「勝って、勝って、勝つ」ことであり、どんなスタイルでも受け入れる素地がある。また、美しさばかりを求めるのではなく、白いユニフォームを汚すラウールのようなプレーヤーを称える文化でもあるのは確かだ。
だから、クラブの説明としては、こうした表現は間違っていない。
数十年といった長いスパンで見た時には「この時代はこういうスタイルだった、あの時代はああいうスタイルだった」といったように、様々なやり方で結果を残してきたと見えるだろう。
しかしそれは、それぞれの時期のチームが万能に何でもできたということとイコールではない。
前段で見てきたように、「あまりボールを持たずに勝つ」のが得意なのが最近の流れであるのと同様、各時代、各シーズンのチームに得手不得手はあったはずだ。
にもかかわらず、「クラブとして色々なスタイルを受け入れてきた」との巨視的な評価を、個々のシーズンやチームにも適用してしまったために生まれた齟齬なのではないだろうか。
また、同じリーグのライバルにポゼッションを是とする層が強固なバルセロナがいることも影響しているかもしれない。
「スタイルが明確なバルセロナに対し、マドリーはこだわりがない」というコントラストはわかりやすい。
それぞれのクラブとしての考え方の紹介としてそういう表現をしていたものが、徐々に「マドリーは何でもできるチーム」へとずれていったとすれば納得できる。
■最後に
このように、マドリーは何でもある程度のレベルでできるチームではない。
プレーヤーのレベルが高いので、狭い局面で色々な対応ができるように見えたとしても、チーム全体としては得意なことははっきりしているのだ。
今のチームの良さは、高い位置で奪いに行ける守備と、そこからの速い攻めだ。
一方でボールを持たされると、サイドに展開しても中央の枚数が少ない、アイデアも出せないといった課題がある。
マドリーをあまり見ない方々にとっては、幻想を打ち壊すような言い方になるかもしれない。
その点はご容赦いただきつつ、でこぼこな特徴あるマドリーを今後も見ていただける方が増えれば幸いだ。