開始早々の失点をものともせず3得点で2連勝。
良い雰囲気がプレーにも活気を与えている印象だ。
- インテリオールの守備、やはり辛そう
- 既に欠かせないベリンガム
- チュアメニの頑張りと今後
- 最後に
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開始早々の失点をものともせず3得点で2連勝。
良い雰囲気がプレーにも活気を与えている印象だ。
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私の故郷は北広島市である。
生まれ育った土地を自虐的に説明することをお許しいただきたいが、北広島は何もない街であった。
札幌に近く幹線道路も通っているエリアには大きな店が立ち並んでいるものの、私の住んでいた駅周辺は住宅地とスーパーマーケットと小さな店舗があるだけ。
歩いて行ける範囲で公園以外に子どもが楽しめる場所はなく、レジャーも食事も札幌や近隣の街に出かけるのが普通というのが当時の実感だった。
近年では、一番大きかったスーパーマーケットも撤退してしまい、残った大きな建物をいくつかのテナントで分け合っているような有り様だった。
小学6年生くらいの頃に、そんな街の緑地帯で雨の中友だちとサッカーをしていたことがある。
その年は市長選挙があり選挙カーが走り回っていて、たまたま近くに停車して候補者が演説していた。「あんなふうに雨の中でサッカーをしている子どもたちもいます。そんな子どもたちのためにスタジアムを作ったっていいじゃないでしょうか・・・」と。
彼にスポーツに思い入れがあって練った話ではなく、何となく目に入った私たちのことを口にしただけだったような印象だったのと、大人から何となく聞いた話だったのか、子どもたちの間でもその候補者は当選しなさそうだという噂があって、まともに取り合う者はいなかった。
「適当なこと言ってるな。」と言い合いながら笑って聞き流し、話題となったことをほとんど気にせず、私たちも遊び続けたのだった。
そんな街に新しい球場ができ、プロ野球チームがやってきた。
候補地となった時から、大都市札幌を出て小さな街へ出て行ってもうまくいかないだろうという見方はあって、故郷を応援しつつも、そうした声に反論しづらいというのが、北広島の駅前がそういう場所であったことを知る者としての偽らざる思いだった。
だから、街の中では大きい方の建物だった総合体育館をはるかに超える大きさのスタジアムの威容を眺めるたびに、こんなものが本当にやってきたとはと、今でも信じられないような感情にとらわれる。
そしてあの雨の日のことを強烈に思いだした。
あの時誰も実現すると思っていなかった出来事が現実のものになったのだなと。
このように思ってもみなかったことが起こって、改めて実感したことがある。
私はヨーロッパのサッカークラブを応援しているから、ネットでニュースを見て夜中や朝方に起きて試合観戦をする。それに加えて自分なりに考えたこと感じたことを書くことで触れる機会を持っているが、現地に行くのは海外旅行になるから日常的な出来事ではない。
何年に一回あるかないかの大きなイベントだ。
そういう関わり方で応援するのが常であったのに、実家から歩いて行けるところにチームがやってきてスタジアムへ何度か行ってみると、全てが違って感じられた。
なにしろ、都合がつけばいつでも見に行くことができて、チームがいる環境に直接触れることができるのである。
「勝っても負けても応援するんだ」とは良く言うが、こういう距離感になってみるとチームが強いか弱いかは副次的な要素に過ぎなくなる。
ちょっと歩けば街のいたるところからスタジアムが見える。そんな簡単なことから、そこにあること自体に価値があること、日常の中でその価値を享受できることが実感として理解できるようになったのだ。
遠い地のチームとすぐそこにあるチームとの両方に触れると、現地に見に行けるかどうかや声を出すとか出さないとかの応援スタイルの違いなど些末なことであると感じる。
あるチームや種目を共通項として。多くの人がその価値を身近なものとして享受できることがスポーツがある生活の価値なのではなかろうか。
攻守の要を失ったにもかかわらず、クリーンシートで力強くシーズンを始めることができた。
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「人種差別を受けるのは、差別される側の態度に問題があるからだ。」
現代の価値観とはおよそ相いれない主張であるが、フットボールの世界では声高にこうした主張をする人々がいることが可視化されてしまった。
他人種がスペインで生活すると、意識無意識を問わず差別的な言動に遭うことは日常的にあるらしい。
また、スタジアムでバカ騒ぎしたいだけのダメな人々がどの国にもいるのは明らかで、スペインも例外ではない。
これらが掛け合わせられて、スタジアムがヘイトクライムの狂奔に飲まれてしまった。
しかし、問題はスペインの一スタジアムに留まらなかった。
バレンシアでのビニシウスへの差別行為は、遠く離れた日本においても、「人種差別を受けるのには理由がある」、「理由があれば人種差別されるのもやむを得ない」と考える人々がいることを浮き彫りにしたのだった。
そうした人々は、嫌いなクラブのプレーヤーに対して「差別は許されない。だが・・・」という言い方で差別を肯定する。
こうした発言をする人は、「差別は許されないと言った。肯定していない!」と言うが、なぜこれが差別の肯定になるかというと、差別を受けないために満たすべき条件などないからである。
“だが”の後段に任意の条件を組み込み、それを満たさなければセーフ、満たすとアウトで差別してもされても仕方ないという考えは、差別を肯定するものに他ならない。
シャビが「どのユニフォームを着ているかの前に一人の人間である」という真理を述べていた。
スポーツ面においては相容れないライバルをどこまでも受け入れることのない、あの彼がである。
それなのに、ダイブ、ラフなタックル、プレースタイル、芝の長さ・・・スポーツのあれこれについて好き嫌いを述べることと、ライバルクラブのプレーヤーの肌の色を揶揄することは同じレベルにないということが分からない人々、それをあえて文字にして表明しようという人々がこの国にも多数いる。
まあいまさら驚くべきことではないかもしれないが、改めて暗澹たる気持ちになってしまう。
他国のフットボールクラブを応援すれば、その国の歴史や文化について多少なりとも知識は入ってくるものだ。
もちろん、それぞれの国やクラブの歴史背景を知り、尊重することは大事なことではある。
しかし、かの国の人々が経験してきたことによって生まれた感情や価値観を内面化しようとしなくとも、私たちは彼らのプレーを応援することだってできる。
スペインで差別的な言動が横行しているとしてもそれを肯定しなければならないわけではないのはもちろんだし、時の政権への支持や抵抗を示すためにとあるクラブを応援していた人々がいたとしても、そのクラブを応援するために彼らの主張に賛同しなければならないわけではない。
プレースタイルが好き、好きなプレーヤーがいた、たまたま見たら気に入った・・・などなど、差別的なものでない限り、誰かには誰かの理由があってよいし私たちにも私たちの理由があってよい。
そこに優劣はないし、どちらかに統一されていく必要もない。
これは、遠い地から応援する私たちの特権でもあり、憎しみを再生産する場とすることなく、純粋なスポーツとしての価値を高めていく一端を担う義務でもある。
そのことを喜び、役割を担う姿勢を示すときではないだろうか。
CL敗退により今シーズンのタイトルレースがすべて終了した。
リーガがあと3節残っているが消化試合なので、一足先に今シーズンの振り返りを。
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