リーガがストに入り、マドリーにはミッドウィークのベルナベウ杯があるとはいえ、来週末までは公式戦がないため、思っていることを書いておく。
スーペルコパ第2戦の騒動で多くの議論があり、その中のいくつかはマドリーかバルセロナどちらかに寄った過激なものであった。
マドリーのファンとして思うことがあったことは否定する気はないし、どこかのクラブのファンならば、応援するクラブが負けて嫌な気持ちになることは当然だし、多くの方に理解していただける感情だと思う。
その意味で、インテルを率いて1年間に獲得できるほとんど全てのタイトルをもたらしたモウリーニョとマドリーが契約し、絶頂にあるバルセロナをどんな手を使ってでも倒すことを支持したファンがいることも、私は理解した。
しかしながら、「どんな手を使ってでも」とはいえ、それはピッチの中のこと。マドリーがインテルと同様、ピッチにバスを停めることになっても、負けるよりはよほど良いということだろうと考えた。
近年のマドリーは特にCLで良い結果を残せないことで混迷していたし、その混迷により監督の任期は短くなり、結果を残せなくなるという悪循環に陥っていたから、とにかくそれなりの結果を残すことが求められていた。
それはその通りだと思う。個人的にはマドリーの素晴らしいフットボールを見たい(これほどのクラブが良いプレーをできないなら、どのクラブができるというのだろう)が、我慢弱いトップがいつ決断を下すかわからない状況では、内容云々とは言っていられないのだ。
だから、ペジェグリーニを解任してモウリーニョへ代わった時は、全面的に納得はしないが、そこに至るプロセスから、致し方ないものかと考えていた。
さて、現状はどうか。
1年目はリーガ2位、CLベスト4、コパデルレイ優勝だった。ペジェグリーニがこの結果ならどうなっていたかはわからないが、モウリーニョは大方の予想通り解任されることなくクラブに残ることができた。
戦術面も整備された。
多くのマドリーのファンが望むようなプレーは少ないが、それでも勝ちが計算できる守備があるチームにはなってきているのもまた事実だろう。
だが、モウリーニョはもはや手に負えなくなってしまっている。
彼は物事をピッチの中で解決することなく、むしろ好んで外へ放り出して、政治力をも使おうとしている。
また、彼は、特にバルセロナに対しての負の感情によって突き動かされているように見える。
憎しみ、妬み、欲という感情によって力を得て、組織を動かしている彼は、シスの暗黒卿となってしまったように思える。
思えば、彼が率いて成功を収めたクラブは、追うべきものがあるクラブばかりだ。
ポルトはCLでの優勝など全く期待されていなかったし、チェルシーは古豪とはいえユナイテッドなどに比べればまだまだであり、アブラモビッチがオーナーとなりこれからまた強くなろうとするところだった。インテルも、資金はあり国内では連覇をしていたものの、ヨーロッパでは他のクラブの後塵を拝していたクラブの一つだった。
彼は、コンプレックスを力に変えてきたのだ。
その中で彼は負の感情に取り付かれたといえば、文学的過ぎるかもしれないが、彼はピッチ外でも力を使い、正しく”どんな手を使ってでも”バルセロナを倒そうとしている。
だが、それは多くのファンが望む方法ではなく、また彼が就任する時に「”ピッチの中で”どんな手を使ってでも」と支持したファンの理解も超えているだろう。
外部に敵を作る彼の方法は、これまで理解されてきたし、組織を動かす方法として賞賛さえされてきたものだが、それが度を越え、自己目的化してしまっている。
選手を守るため、クラブを守るためとされてきた彼の、今の言動と行動は、計算されたもののようには思えない。
また、相手をけなし、皮肉り、罵りたいと思う一部の人々を唆し続けている。マドリーとバルセロナにかこつけて、ただ騒ぎ、相手を見下したいと思っている人々を焚きつけ、多くのファンにそれこそが熱狂的なサポートだと誤解させようとしている。
それがフットボールとはそういうもの、スペインのクラブとはそういうものと言う人はいるだろうが、今までそうだったからといって、これからもそうでなければならない理由などないのに、だ。
バルセロナが絶頂にあるとはいえ、それが永久に続くものではないと、腰を据えたクラブ運営ができれば良いのに、モウリーニョはそこにコンプレックスを持ち込んだ。
マドリーにはコンプレックスを抱える必要はないのに。
クラブとファンはむしろプライドを持つべきだった。シュスターやペジェグリーニのシーズンに。モウリーニョがチェルシーでしたように、それらの失敗とされるシーズンにこそ顎を上げるべきだった。
今ここで監督を替えることの愚かさはわかりきっているが、自問したい。コンプレックスを抱えてシーズンを戦うのか、プライドを持ってシーズンを戦うのかと。